バリアフリー・コミュニケーション研究所

吃音者が自由な人生の選択肢を持つことができる社会の実現を目指して多様な観点から考察・情報収集・行動をしていきます

バリアフリー・コミュニケーション研究所の発足

 突然ブログで、「研究所を発足する」などと言いだしても、信じてくれる人はあまり居ないだろう。このブログのタイトルも「バリアフリー・コミュニケーション研究所」である。当面、意気込みとしての名称だと捉えて頂きたく考えている。

 このブログの開設を前に、twitterで「バリアフリー・コミュニケーション」に関するアカウントも開設した。本来は順序が逆であるべきだったように思えるが、当初twitterのみで目的に関する情報を収集するつもりであった。しかし、この形態では、twitterのフォロワーが、僕が特定の目的についてひたすらつぶやくことに関して抵抗を持ち、フォロワーが増えないのではという危惧を持ったので、情報をある程度ブログに分散させようと考えるに至ったのである。

 

 さて、問題の「バリアフリー・コミュニケーション」とは少なくとも国内ではあまり使われていない言葉であり、僕は独自の定義を持っている。その定義は、「コミュニケーションに関係する障害を持つあらゆる人が、自由に・平等にコミュニケーションを行えること・あるいはその環境」である。なんだか説明が綺麗にまとまらなかったが、それがこの名称の由来である。

 具体的にどういったことを対象にするかというと、それは吃音である(将来的には上記の定義に関係するあらゆることを視野にいれている)。僕は35年の吃音持ちだ。長くそれに苦しんできた。それが原因のこともあり、そうでないこともあり、結果としては職を転々とし、今はかなり経済的には不安定な状況にある。しかし決して絶望的な状況ではない。だからこそ、悔いの無いように、若いころから心の中で「やるべきこと」と密かに思ってきたことを実行する段階であると判断したのである。

 

 ところで吃音症という言葉を、どれだけの方がご存じだろうか。吃音症は、見えない障害(twitterのハッシュタグから引用させていただきました)の代表格というべきものであり、国にも正式な障害として認められているものではない。吃音を持つ人は、言葉が出ず、あるいは同じ音を延々と繰り返し、事情を知らぬものからは奇異な目で見られ、地獄のような苦しみを味わうと言われている(他人からは緊張しているようにしか見えないので、コミュニケーションの能力が不足しているだけと誤解され、社会的能力が低いと見做されてしまう)。地獄とは大げさに聞こえるかもしれないが、あなたが今、急に言葉を操れなくなったのに、だれもそれを病気だと理解してくれなかったらどれほど辛いことだろう。それが数十年続く人生は、どれだけ惨めで情けないことだろう。残念ながらこの病気は、日本において社会的にはほとんど認知されていないと言ってよい。それは学術の分野でも同様に遅れていたが、今年度に至り、ついに「第一回吃音・流暢性障害学会(http://www.jssfd.org/)」というものが開催されるに至ったようだ。様々な先生方・研究者の皆様によって実現に至ったであろうこの学会のこの動きについては僕も今後よく観察していきたいが、この実現にはひとつの意味があり、それは吃音の諸問題を解決するための追い風が吹いているということを指すと僕は考えている。

 上記の「見えない障害」の問題により、日本の吃音症の方々の歴史的な集いの場である言友会の方々が、これまで長きにわたり、吃音に親しい政治家の力を借り、吃音症の問題…たとえば障害者手帳が発行されないことについて国と掛け合ってきても、結果としては状況は変わらないままであったと、かつて聞いた。そこで僕は、それらの活動と同時に、社会的認知を高める活動が必要なのではと考えたのである。すなわち、研究の観点、政治の観点、そして社会の観点から問題の解決を図ることで、広く吃音者を社会に受け入れてもらおうという考え方である。「バリアフリー・コミュニケーション研究所」は、社会の観点からの問題の解決を図ることを計画している。

 

 なんだか説明がまだ不足しているが長くなったのでこのエントリはここまでとするが、「研究所」などと大それた名前を付けたこのブログで、あるいはこのブログやtwitterを利用して、どのような活動を行っていくつもりであるかは、次回のエントリで説明していく。