バリアフリー・コミュニケーション研究所

吃音者が自由な人生の選択肢を持つことができる社会の実現を目指して多様な観点から考察・情報収集・行動をしていきます

僕の吃音遍歴(2)

前回のエントリの続きです。

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 大学入学直前にして、突然の吃音の再発、しかもこれまで体験したことのない難発型の症状に見舞われた僕は、友人を作らないということはなかったものの、できるだけ言葉を発さなくても良い環境を望むようになった。具体的には、内心では誰とも交流したくない、大学に通いたくない、そのような考えばかり巡らせるようになっていった。

 高校のころからギターを初めて、大学のサークルでも軽音楽部に入っていた(すぐに辞めたが)僕は、自分の声(歌声)をよく録音していたので、自分の発声が変化していることにすぐ気がついた。もともと滑舌が良くなく通りにくい声だなというコンプレックスはあったものの、難発型の症状が再発してからは、どもりが出ていないときでも明らかに健常者の発声とは異なっていた。実は今でもその癖は治っておらず、良く物まねをされ、腹が立つこともしばしばある。具体的には、唇を閉じた状態から発音する単語を発生する場合、たとえば「何ですか」というときは、「んーなぁんですか」という感じになる。文字表記するとあまり異様さは感じないが、実際に聞いてみるとその異様さは良くわかるはずである。最初この声を聞いたとき、これが自身のものだとはにわかには信じがたかったのをよく覚えている。マ行などもそうで、自分の名前がマ行から始まっていたので、仮に名前を「宮下」だとすると、「ん~み、ん〜み、みぃやしたです」となってしまう。会話のあらゆるところでこんな調子なのだから、多少は奇異な目で見られても仕方のないところだ。繰り返すが、これは当時も変だということで相当真似をされたし、そのような変な目で見られるのが嫌で、僕は大学入学直後にできた友人以外とは次第に距離を置くようになった。人付き合いも上手にできなくなり、サークルも早々に辞めてしまった。さらに、最初から唇を開いたり噛んだりして発音する音、たとえば母音などに関してはもっとひどく、とにかく全てにおいてまったく発声のコントロールもできなくなっていた。そんなわけで、兎に角僕を戸惑わせたのは、大学入学直前から直後にかけての自分の発話能力の変貌ぶりだった。とはいえ、吃音症持ちの方々ならお分かりだと思うが、そのような言葉を巧みに避け、周囲からは「変わった喋り方だが言語障害などではない」という認知は得られていたと思う。

 次第にそういった気苦労に疲れた僕は、典型的なパターン、つまり大学に行かなくなるという選択肢を取ってしまった(吃音だけが原因ではないとは思うが)。そして大学1年目の夏休みは、それこそ1歩も外に出ず、殆ど何もしない寝たきりのような毎日を過ごした。あまりにも精神的に脆弱と思われる方もおられるだろうが、突然の吃音の再発を抱えながらの大学での新しい人間関係の構築に、とにかく僕の精神はすっかり疲弊しきってしまっていたのだと思う。

 夏休みが終わり大学の講義も1年の後期になると、前期では中程度を保っていた成績もガタ落ちし、前述のとおり次第に大学にも通わなくなった。このころ僕は人生でも一番自暴自棄の頃で、単発のアルバイト(イベントのステージ設営やエキストラなど言葉を発しなくても良いものをしていた)で稼いだ金で、(本当にナルシスティックな行為で書くのも恥ずかしいのだが)毎晩のようにウイスキーを1本空け自分の世界に浸っていた。そうして自分はなんてついてない人間なんだろうとくよくよすることで、精神的安定を図っていたのだ、と思う。ああ書いていて本当に恥ずかしい。

 大学ではそのような調子で、酒浸りの生活は続いていたのだが、大学2年に入ったあたりから、僕は、実は自分の吃音を克服するため、アルバイトを探すことにした。そして、そこそこ良いレストランで接客業を始めることになった。これだけなら前向きな人間に見えるかもしれないが、本当のところを書くと、面接に行き「何も考えずひたすら皿洗いをしたいので採用してください」と言ったところ、お前は面白いやつだということになり、なぜかホール採用になってしまった。そこで僕は折角なのだからとそのバイトを続けることにしたのである(結果的には断続的ながら5年程度続けた)。

 そのバイトでは良く叱られた。客単価は4000円程度とそこまで高いわけではないが、本格的なサービスの提供を目指すレストランであったので、調理人のスタッフはとても厳しく、オーダーを通す際に少しでもどもってしまうと罵声とともにフライパンで殴られることも頻繁にあった。ちなみに吃音については面接のときに説明し、皿洗い以外無理だという説明をしたので店長は良く理解してくれていて、応援もしてくれていた。その店長は僕が働き始めてから数か月で退職してしまったのだが、その次に来た店長も同じように理解をしてくれて本当に幸いであった。そんなわけで、非常階段であまりの悔しさに泣きながらも、くらいつくようにオーダーを通し、そのたびに怒鳴られ、出勤するたびに「お前は使えないから帰れ」と言い放たれても「か、か、帰りません、す、すみません」と言い返し、ひたすらバイトにのめりこんだ。1年もすると、どもりはするが(自分で書くことではないような気もするが)ちゃんと仕事はするやつだ、根性のあるやつだと思われるようになり、かつ、流暢に喋れない自分ができるサービスはとにかくお客様を喜ばせることだと考えるようになり、そのことだけをひたすら考えて働き、それなりに店の運営に貢献できるようになっていった。その過程で、いくらか吃音の症状も改善されていたと思う。

 一方で大学にはほとんど通わなくなっていたが、幸い友人たちが、僕のおかしな様子を察してか、単位の選択や登録、出席カードの代理などかなり手伝ってくれて、なんとか僕は留年は免れていた。その友人たちには本当に感謝しているし、とても反省している。さらに言えば周囲を巻き込んだ自分の愚かな行為にいまだに悔んでいる。ともあれ、そのような大学生活を続けるなかで時間はどんどん過ぎていった。そして大学3年の後半になり、ついに就職活動の時期を控え、僕は自分の将来がどうあるべきか考えるようになった。その時僕は、すっかり接客業が好きになっていて、夏休みなどは毎年短期バイトで山奥のレストランで働くなどしていたくらいだったので、このまま接客業を食い扶持にしていくのは悪くない、むしろそうしたいと思うようになっていた。

 そんな大学4年のはじめごろ、アルバイトに一人の新人が入ってきた。大学1年生とのことで、その新人のためにサービスの見本を見せることになった。実は僕はこれが本当に苦手で、(お客様に喜んでいただけるという意味で)接客にはそれなりに自信はあったのだが、それを他のスタッフにみられるのは、自分の吃音症の様子を自らデモンストレーションするようなもので、苦痛以外の何物でもなかった。そして、その新人に見本を見せ、「どう?分かった?」と聞いたところ、「はぁ…まあ、はい」というような何か不思議そうな反応だった。彼の真意は分からないが、その時僕は、仮にこの仕事を天職と定めるとすると、この調子では将来自分が人の上に立つ立場になったとき、スタッフを教育するのは困難だと強く感じた。で、接客業を生業にするのは僕には無理だと判断し、あきらめることにした。

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最近ツイッターで皆さんと交流していると、吃音持ちで接客業をやっておられる方が多くて本当に驚きます。当時の自分の選択がどれほど正しかったのか、未だによくわかりません。

次回のエントリに続きます。