バリアフリー・コミュニケーション研究所

吃音者が自由な人生の選択肢を持つことができる社会の実現を目指して多様な観点から考察・情報収集・行動をしていきます

吃音に対する向き合い方の違い

 吃音症の当事者・および関係者の方々にとっては至極当然のことかもしれないが、吃音症の当事者達が望む吃音に対する対処法、あるいは吃音症の対処法の志向と言うべきであろうか、それについて整理しておきたいと思う。当然ながら以下の分類は僕の主観なので、「それは違うんじゃないか」というご意見があれば、コメントいただければ幸いである。随時修正していきたいと思う。

 

(1)吃音を治す

 吃音を治そうと努力をする方法である。僕はおもにこのタイプであった。今もそうかもしれないが、昔よりかは治そうというこだわりは減ったと思う。吃音を治す方法も諸々ある。

  • 発声練習
  • DAT装置の利用
  • 心療内科への通院
  • 場数を踏む

 他にもあるかもしれないが、僕が経験したのはこんなところである。いずれも、効果はそこそこといったところで、僕が一番吃音の状態が悪かったと感じている20歳前後に比べたら、だいぶ緩和された自覚があるが、いずれの方法でも完治に至らせるのは難しいと感じる(個人差はあるかもしれないが)。それぞれについてはまた記事をあらためて述べていきたい。

 ところで、少し話がずれるかもしれないが、僕は扁桃腺炎持ちで、よく高熱を出す。そのようなときの吃音の状態は最悪で、これ以上ないくらい発声のコントロールができなくなる。一見、同じように見えても、吃音者と健常者の発声のメカニズムは根本的に異なるはずなので、発声に関わる肉体の器官がダメージを受けると、吃音が重症化するのかなあなどと自分では思っている。

 

(2)吃音であることを受け入れる

 吃音であっても仕方ないじゃないか、と良い意味で開き直るタイプである。社会がどのように見ようと、自分は自分である、と堂々と胸を張って生きることができるタイプである。若年層でこのタイプは少ないのではないかと思われる。どこかの本に、30台中盤になるとこの状態になる場合があり、それが結果的に治癒に貢献すると書いてあったことを覚えている。これは完全に個性によるのではないかと考えている。

 たとえば僕は、「えーとえーと」というフィラーを挟むことで、なんとか最初の音を発声しようとする傾向があるが、未だに、一回「えーとえーと」といってしまうだけで相当沈んでしまう。だから僕にとって受け入れるというのは少々理解が難しい方法なのだが、諸般を見渡せばそのような方々も多く、是非参考にしていきたいと感じる。ただ、個性による差があるというのは忘れてはいけないと思っている。

 

(3)吃音を社会に受け入れてもらう

 社会に吃音の存在を受け入れてもらい、あるがままの自分を見てもらおうという考え方である。僕は、先ずこれが目指すべき最優先の世界ではないかと思っている。なぜならば、一番多くの人がその恩恵を受けることができると思うからだ。足を引きずっている人がいれば、「あ、怪我しているんだな」と思うのと同様、吃音症の人を見た時、「あ、吃音症なんだな」と思うようになり、そこには吃音症の人に対する奇異な視線は存在しない。そのような世界を僕は望んでいる。

 

(4)吃音症を障害として認めてもらうよう活動する

 僕はあまり詳しくないが、国に障害として認めてもらうことで、障害者手帳を発行してもらい、生活のサポートを受けようという考え方である。僕も国は障害者手帳を望む人に発行するべきだと思う。しかし、吃音を障害として認めてほしくないと考えている人も多く、意見が吃音症持ちの間でも分かれていると聞いた。たしかに、一度国が認めてしまえば、自分が手帳をもらおうとどうだろうと、世間の目は「障害者」ということになる。それに抵抗がある人が出てくるのは当然だ。

 僕も自分が障害者という自覚はない。しかし、いつかは吃音症持ちの人の多くが向き合わなければならない現実だろう。

 

(5)あきらめる

 すべてをあきらめ、会話することすら放棄するタイプである。言い過ぎかもしれないが、引きこもりやニートになったり、自殺してしまうことすらあり得るだろう。実は僕も、一度会社を辞めたとき、この状態に陥った。死にたいとおもったことだってある。このような人は決して少なくないだろう。

 

 さて、とりあえず上記のように吃音症持ちの吃音に対する志向を整理してみたが、僕はとりあえず今まで(1)(2)を試み、途中で(5)の状態に陥り、そして今、(3)か(4)かを選択をしようとして(3)を選ぶことにした。従ってこのブログでは(3)を実現する方法について検討することを目指すのである。