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バリアフリー・コミュニケーション研究所

吃音者が自由な人生の選択肢を持つことができる社会の実現を目指して多様な観点から考察・情報収集・行動をしていきます

僕の吃音遍歴(4)

3週間以上間が空いてしまいましたが、前回の続きです。いくら書き直しても自己陶酔的になってしまうなあと思って、何度も何度も書き直し、結局数日かかってしまいましたが、なんとか書き終えました。そして、書き終えた後、さらに何日もかけて読み直していたら、結局1週間以上もかかってしまいました。申し訳ありません。

修正したい箇所はたくさん残っていますが、あまり時間をかけても仕方がないので…とりあえずこれで自分語りは最後です。宜しくお願いいたします。

 

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前回のエントリの終盤で書いたように、なんだかんだ言いながら僕は殆ど就職活動もせずにベンチャー企業に就職することを決めた。ここで、誤解がないようにあらためて強調しておきたいのだが、このような進路の選択の仕方、それ自体は悪いことだとは決して思っていない。なんだかんだ理由を付けて、自分の抱える問題から逃げ続けるための道を選んできたことすらも、それはそれでうまくいくのなら十分アリだと考えている。本質的な問題は、それでうまくいかなかった時に、後悔し続けてしまうことなのだろう。たとえば、プライドを守りながらも問題から目を逸らし逃げ続けるなど、中途半端が一番良くないと思う。僕はまさにその中途半端な生き方を続けてきた。

 

さて、僕が就職した会社は、ベンチャーといっても業界ではそこそこ有名で、大手企業との取引も多くあった。僕の仕事は、学生派遣の頃は、客前には出ない裏手の技術職だったが、正社員になるとそれに併せて客先に出ることも増えた。客先での仕事は、技術部が作成した報告書をもとにプレゼンすることで、プレゼンの相手は大企業から零細企業までの、技術担当やときには経営者に対してであった。実は、これ自体は僕はあまり苦手としていなかった。特定の言葉を言わなければならない状況でなければ、自由な発話が許容される状況であれば、どもりながらもそれなりに苦しまず言葉を発することができたからだ(発しにくい言葉を避けやすいという理由もあるし、その理由からくる精神的余裕が、僕の苦手意識を軽減させたのだと思う)。

で、僕が苦にしていたのは、典型的だがやはり自分の社名と名前が出てこないことだ。顧客訪問の際に自分を名乗るときもそうだし、電話をとるときもそうであった。何度も何度も、それこそ年に何百回も、現場で僕は自分の会社名と自分の名前をある程度スムーズに発することを試みた。いや、試みなければならなかった。しかし一度たりともうまく言えたことはなかった。「えーと」を3,4回くりかえしたあと、絞り出すように名前を言うのが限界だった。そのたび、大局的に考えれば本当に些細なことなのに、数日間その失敗ばかりが頭を埋め尽くした。ノイローゼになりそうな毎日だった。

 

僕は失敗したと感じるたびにそのことをくよくよと考えた。プレゼンするときも、会社に戻ってからも、打ち合わせ中も、延々とそのことばかり考えていた(今思えば、その状態でよく通常業務に支障をきたさなかったものだ)。僕がどもっているとき、相手はどのように感じているのだろう。たとえばある会社に電話をかけてみる。相手がでるとどうも様子が変で、「えーと、えーと、えーーーーっと、えーーーー、あ、あ、株式会社〇〇の、えーと、えーと、えーと、〇〇です」などという返事が受話器の向こうから聞こえてきたらどう思うだろう。思ったほど相手は気にしていないよ、なんていう慰めの言葉を世間では良く聞くけれど、さすがに程度というものがあるだろう。度を過ぎれば、流石に「変だな」と思うに決まっている。僕はそういったことを、寝ているときを除き、ほぼ延々と考えるようになった。それと同時に、吃音さえなければもっとスマートに仕事がこなせるのに、社内の評価ももっと変わるのに、そういったことばかり考えるようになった。大学の友人と飲みに行き、仕事の話をするときでも、僕は後ろめたさばかり感じていた。世の中には、華麗にトークをこなしてこそ成り立つ仕事が多くあって、えてしてそのような仕事のほうが世間からの評判も、生活の質も高いと思っていた(今もある程度思っている)。そのように当時の僕は考え、劣等感を覚え、自分の生まれつきとも言える障がいに落胆した。

 

でも、よくよく考えれば、そいう精神状態になるのも必然であったろう。結局のところ、それまで自分の病気と向き合わず逃げ続けてきたということは、吃音である自分を知られたくない、吃音の様子を見られたくないという気持ち、プライドの裏返しではないか。ところが、逃げ続けた先にあったのは、逃げようのない「吃音者である自分を見られる場」だった。そんな未来すら想像できないくらい、僕はその場その場の問題から逃げることだけに必死だったのだから、今考えれば本当に滑稽な選択だった。しかも、吃音ではなくて、単に「酷いアガリ症の奴」だという誤解を受けるときている。これは、逃げることで高いプライドをなんとか保ち続けてきた自分にとって、精神的に堪らないものがあった。何度も、「これからもずっと吃音という病気の存在は理解されるわけはないのだから(一部の上司は僕の苦しみは理解はしてくれたが、病気については結局殆ど理解していなかった)、アガリ症のやつなのだというレッテルを張られ続けるという覚悟を決めよう」と思ったけれど、高校の終わりから6年もの間逃げ続けてきた僕にとって、毎日毎日朝から晩まで吃音の自分をさらけ出しながら、スパッと発想を転換するのは至難であった。

 

入社2年目の時点で、部署の直属の先輩が退職してしまい、僕はチームのリーダーを任されることになった。これはそれなりに仕事を評価されているということだろうが、仕事そのものの評価と、スムーズなコミュニケーションが取れないという自己評価、周囲からのレッテルとのギャップに僕は苦しんだ。どんなにうまく仕事をこなしても、ぬぐいきれない、なんだかどろどろとした後ろめたさや劣等感、吃音者だからという理由だけでなぜか必要以上に下手な態度出てしまう自分、ミーティング中に議論になると、子供のころのように、虚勢をはっているからどもっているのだと周囲は感じてるのだろうな、と思いこんでしまうこと、そういった出来事すべてが自分にとってストレスだった。

 

そのような状況で4年半ほど働いた結果、僕はマネージャークラスにまで昇格し、20代半ばにしてはそれなりの待遇を得ることができたが、ストレスと過労で、肉体的な病にかかり、結局退職する道を選んだ。

 

その後、僕は大学に戻ることにした。理由を簡単にいえば、社会貢献につながる仕事をしたいと、この頃人生で初めて強く思うようになっていたのだが、自分にはそのスキルもノウハウもないことが良くわかっていたので、かつて中途半端で終わった学問の道を再び志すことにしたのだ。そして、ここでも相変わらず中途半端に吃音に少なからず関係するような研究を続け、しかし決してその領域に踏み込むことはないという逃げ腰な態度を続けた。

社会人になったころのようなそれなりに強靭だった精神力はなく、体力はどんどん衰え、2年ほど、(おもに肉体的な衰えが原因で)月の半分くらいを布団の中で過ごすことを余儀なくされながらも、任期付きや非常勤の仕事を続けながら、苦しんで学位を取得するための研究活動を続けた。(余談だが、吃音で精神力が削られる→肉体的ストレスに転化する、ということを僕は嫌というほど思い知らされている)

体調を崩した布団の中でスマートフォンをいじり、同期の活躍をfacebookなどで見るたび、どうせ吃音で苦しむなら、どうしてもっと最初からそれと向き合い、いくつもの場面で真剣に意思決定をしてこなかったのだろうかと涙を流すこともあった。そうでなければ、このようなみじめな思いはしなかったのではないか。ここまでストレスをためこみ、悪循環の連鎖で人生が落ち込むことはなかったのではないか。そういった後悔の念ばかりが頭を埋め尽くす毎日が続いた。

 

その状況下で、あるとき、高熱を出して寝込んだいたとき、呆然と天井を眺めながら僕ははじめて思った、というか覚悟が決まった。このまま、この吃音という病気に振り回され、負けるくらいなら、もうこの病気から逃げることはやめようと、30代も半ばにしてようやく思うことができたのだ。結局、人生の選択肢で迷い続けた、後悔し続けてきたのは、すべては吃音からくるストレスが原因ではないか。吃音から逃げ続けてきたという自分自身の選択が、今の自分の状況を招いたのではないか。それなら、これからは、正々堂々と吃音と向き合うことにしようではないか。そして、できることなら、同じ苦しみを味わう若い人たちが減るよう、なにか社会を変えることができる活動を、小さいながらも始めていく。それがこれまで逃げ続けた自分を乗り越えることではないのか。そのように考えて、まず吃音にはじめて向き合うために、このブログやtwitterを始めることにしたというわけである。

 

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これが現在に至るまでの僕の吃音に関わる遍歴です。何かの反面教師になって頂けたら幸いです。

もっと細かいこと、たとえば恋人とのやりとりで理解されず苦しんだとか、色々な治療法を試したとか、沢山エピソードはありますが、大筋のみを語るにとどめました(それでも長すぎだと思いますが)。それにしても、人生の選択の様々なタイミングで、何をどうすれば正しかったのか、未だにはっきりとは分かりません。今も「吃音さえなければ、あの人やあの人みたいに、素敵な仕事ができるんだろうなあ」と考える毎日です。だからこそ、今僕が一番やりたいことは、吃音者が人生の選択をもっと自由にできるような、そのような社会を実現する契機となるための何かなのです。それが自分にとってもっともストレスがない選択であることに気づきました。

 

とりあえず自分語りは一旦これで終わりです。自分のバックグラウンドは一通り述べたので、次回以降のエントリでは、具体的なこれからの考えについて述べていきたいと思います。

僕の吃音遍歴(3)

 なんだかんだ長くなってしまいました。前回の続きです。

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 当時、仕事としてとても気に入っていた接客業を生業とすることをあきらめた僕は、いくつかの選択肢から進路を選ぶことになった。

  1. 普通に就職活動する
  2. 大学の推薦で就職する
  3. 大学院に進学する

 僕の出身大学の知名度および90年台終盤という時代背景から、推薦による就職は学科の6割と超える程度だったと記憶している。つまり、そこそこ真面目に大学に通っていれば大手企業への就職はある程度約束されているような状況であった。しかしながら前回のエントリで書いたように、僕は大学生としては非常に不真面目極まりない人間だった。従って、普通に考えれば、「1.普通に就職活動する」を選択するしかない局面だった。しかし、僕が選択したのは「3.大学院に進学する」だった。

 僕の学部は理工系であり、3年後期で研究室に配属されるのだが、思いのほかこの研究室生活は楽しかった。先生や先輩、そして同期に恵まれていたということもあるが、何よりも、具体的な目標を持って勉学に励むことの楽しみを、このとき初めて知った。個性豊かな人が揃っていて、僕の吃音を指摘する人は誰もいなかった。しかし、やはり2年にも及ぶ怠惰な学生生活は自身の能力に相応なダメージがあり、自業自得とはまさにこのことだが、そのダメージはコンプレックスとなっていまだに引きずり続けることになっている。当時の僕は、「なぜ真面目に勉学に励んでこなかったのか、いやしかし自らの吃音を克服し、人生を充実させるためにはああするしかなかったのではないか」と葛藤し、結局「今からでも遅くはない」と判断して大学院に進学することにした。成績は学科でも最低クラスだったので、院試を受けた。正直かなり苦労し、本当なら落とされて当然な結果だったように思えたが、何故か合格だった。個人的には、面接時にこれまであったこと(吃音のことは除く)をすべて話し、今からやり直し、社会に出るに当たって悔いなく勉学を修めたいと教授陣に頭を下げたことが効果的だったのではと考えている。勿論、冷ややかな目でみる先生方もおられたが、温かい目で見てくださるかたもおられ、結果僕は大学院に進学することになった。

 しかし、敢えて書くが、このとき僕の心の片隅に、就職活動から逃げるという気持ちがあったことは否定できない。バイト三昧の大学生活を送り、これから失った時間を取り戻すなら、奨学金を借り、親に頭を下げ、進学するのも悪い選択肢ではないはずだ。でも僕は真面目に就職活動する選択肢も十分に考えられたのに、ある意味進学を理由に全く就職活動しなかったのは事実だ。

 

 ともあれ僕は大学院に進学し、研究活動に打ち込んだ。しかし、2年間の遅れを取り戻すのは本当に困難で、数学や物理、電子回路の分野など、ついていけないことがしばしばであった。難しい研究テーマであったので、その変更を望んだこともあった。それでも先生から「やり始めたことは最後までやり通すのが大事なんだ」と諭され、「お前は真面目だけが取り柄だな」という言葉をいただけたことに奮起し、大学院1年である程度情況を改善することは出来たと思う。

 大学院2年になった頃、また就職活動の時期が訪れた。僕は正直、ここでも逃げた。厳密に言えば、逃げ道を探した。当時、ある程度の技術があればそれなりの待遇をもらえた学生派遣に登録し、あるベンチャー企業で学生派遣社員として働き始めた。研究との両立はなかなか大変であったが、金銭面でも苦労していたし、この選択は間違っていなかったと思う。しかも、学生派遣ということで裏の作業が多く、面接時も含めて吃音が大きな問題となる場面もなかった(学生派遣だし緊張して当然、くらいに見られていたし、仕事が限定されていたので吃音は問題にされなかった)。僕は結局その環境に甘え、幾度か就職活動を試みたが、グループディスカッションなどでうまくコミュニケーションが取れないことに嫌気がさし、「別に問題がないならばこの会社に就職すれば良いじゃないか」ということでその会社に就職することを決めてしまった。僕はそれなりに評価されていたらしく、会社側としても大歓迎ということで、結局このときもまともに就職活動しないまま道を決めてしまった。

 

 大学院も無事卒業し(発表などでどもりはしたが、接客業のアルバイトの成果もあってか、あまり苦にした場面はなかったと憶えている)、いよいよ僕の社会人生活は始まった。次がおそらく、この自分語りの最後の記事になるが、とりあえず僕がこの一連の記事で伝えたいことは、逃げた結果選んだ道は、あくまでも逃げた先でしかなく、決して「選択した道」ではないということだ。正面から逃げずに、多くの選択肢を探し、その中から選んでいくのが人生の正道であり、逃げた理由としてうまい言い訳を探して自分の人生をいくら納得させようと、正当化させようとしても、結局はどこかでしっぺ返しをくらうものなのだ。

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ちなみに、逃げることそのものは悪いことではないと思います。しかし、逃げ続けるのではなく、どこかで自分自身と向き合うべきだったのだと反省している、という話ですね。

次回に続きます。

僕の吃音遍歴(2)

前回のエントリの続きです。

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 大学入学直前にして、突然の吃音の再発、しかもこれまで体験したことのない難発型の症状に見舞われた僕は、友人を作らないということはなかったものの、できるだけ言葉を発さなくても良い環境を望むようになった。具体的には、内心では誰とも交流したくない、大学に通いたくない、そのような考えばかり巡らせるようになっていった。

 高校のころからギターを初めて、大学のサークルでも軽音楽部に入っていた(すぐに辞めたが)僕は、自分の声(歌声)をよく録音していたので、自分の発声が変化していることにすぐ気がついた。もともと滑舌が良くなく通りにくい声だなというコンプレックスはあったものの、難発型の症状が再発してからは、どもりが出ていないときでも明らかに健常者の発声とは異なっていた。実は今でもその癖は治っておらず、良く物まねをされ、腹が立つこともしばしばある。具体的には、唇を閉じた状態から発音する単語を発生する場合、たとえば「何ですか」というときは、「んーなぁんですか」という感じになる。文字表記するとあまり異様さは感じないが、実際に聞いてみるとその異様さは良くわかるはずである。最初この声を聞いたとき、これが自身のものだとはにわかには信じがたかったのをよく覚えている。マ行などもそうで、自分の名前がマ行から始まっていたので、仮に名前を「宮下」だとすると、「ん~み、ん〜み、みぃやしたです」となってしまう。会話のあらゆるところでこんな調子なのだから、多少は奇異な目で見られても仕方のないところだ。繰り返すが、これは当時も変だということで相当真似をされたし、そのような変な目で見られるのが嫌で、僕は大学入学直後にできた友人以外とは次第に距離を置くようになった。人付き合いも上手にできなくなり、サークルも早々に辞めてしまった。さらに、最初から唇を開いたり噛んだりして発音する音、たとえば母音などに関してはもっとひどく、とにかく全てにおいてまったく発声のコントロールもできなくなっていた。そんなわけで、兎に角僕を戸惑わせたのは、大学入学直前から直後にかけての自分の発話能力の変貌ぶりだった。とはいえ、吃音症持ちの方々ならお分かりだと思うが、そのような言葉を巧みに避け、周囲からは「変わった喋り方だが言語障害などではない」という認知は得られていたと思う。

 次第にそういった気苦労に疲れた僕は、典型的なパターン、つまり大学に行かなくなるという選択肢を取ってしまった(吃音だけが原因ではないとは思うが)。そして大学1年目の夏休みは、それこそ1歩も外に出ず、殆ど何もしない寝たきりのような毎日を過ごした。あまりにも精神的に脆弱と思われる方もおられるだろうが、突然の吃音の再発を抱えながらの大学での新しい人間関係の構築に、とにかく僕の精神はすっかり疲弊しきってしまっていたのだと思う。

 夏休みが終わり大学の講義も1年の後期になると、前期では中程度を保っていた成績もガタ落ちし、前述のとおり次第に大学にも通わなくなった。このころ僕は人生でも一番自暴自棄の頃で、単発のアルバイト(イベントのステージ設営やエキストラなど言葉を発しなくても良いものをしていた)で稼いだ金で、(本当にナルシスティックな行為で書くのも恥ずかしいのだが)毎晩のようにウイスキーを1本空け自分の世界に浸っていた。そうして自分はなんてついてない人間なんだろうとくよくよすることで、精神的安定を図っていたのだ、と思う。ああ書いていて本当に恥ずかしい。

 大学ではそのような調子で、酒浸りの生活は続いていたのだが、大学2年に入ったあたりから、僕は、実は自分の吃音を克服するため、アルバイトを探すことにした。そして、そこそこ良いレストランで接客業を始めることになった。これだけなら前向きな人間に見えるかもしれないが、本当のところを書くと、面接に行き「何も考えずひたすら皿洗いをしたいので採用してください」と言ったところ、お前は面白いやつだということになり、なぜかホール採用になってしまった。そこで僕は折角なのだからとそのバイトを続けることにしたのである(結果的には断続的ながら5年程度続けた)。

 そのバイトでは良く叱られた。客単価は4000円程度とそこまで高いわけではないが、本格的なサービスの提供を目指すレストランであったので、調理人のスタッフはとても厳しく、オーダーを通す際に少しでもどもってしまうと罵声とともにフライパンで殴られることも頻繁にあった。ちなみに吃音については面接のときに説明し、皿洗い以外無理だという説明をしたので店長は良く理解してくれていて、応援もしてくれていた。その店長は僕が働き始めてから数か月で退職してしまったのだが、その次に来た店長も同じように理解をしてくれて本当に幸いであった。そんなわけで、非常階段であまりの悔しさに泣きながらも、くらいつくようにオーダーを通し、そのたびに怒鳴られ、出勤するたびに「お前は使えないから帰れ」と言い放たれても「か、か、帰りません、す、すみません」と言い返し、ひたすらバイトにのめりこんだ。1年もすると、どもりはするが(自分で書くことではないような気もするが)ちゃんと仕事はするやつだ、根性のあるやつだと思われるようになり、かつ、流暢に喋れない自分ができるサービスはとにかくお客様を喜ばせることだと考えるようになり、そのことだけをひたすら考えて働き、それなりに店の運営に貢献できるようになっていった。その過程で、いくらか吃音の症状も改善されていたと思う。

 一方で大学にはほとんど通わなくなっていたが、幸い友人たちが、僕のおかしな様子を察してか、単位の選択や登録、出席カードの代理などかなり手伝ってくれて、なんとか僕は留年は免れていた。その友人たちには本当に感謝しているし、とても反省している。さらに言えば周囲を巻き込んだ自分の愚かな行為にいまだに悔んでいる。ともあれ、そのような大学生活を続けるなかで時間はどんどん過ぎていった。そして大学3年の後半になり、ついに就職活動の時期を控え、僕は自分の将来がどうあるべきか考えるようになった。その時僕は、すっかり接客業が好きになっていて、夏休みなどは毎年短期バイトで山奥のレストランで働くなどしていたくらいだったので、このまま接客業を食い扶持にしていくのは悪くない、むしろそうしたいと思うようになっていた。

 そんな大学4年のはじめごろ、アルバイトに一人の新人が入ってきた。大学1年生とのことで、その新人のためにサービスの見本を見せることになった。実は僕はこれが本当に苦手で、(お客様に喜んでいただけるという意味で)接客にはそれなりに自信はあったのだが、それを他のスタッフにみられるのは、自分の吃音症の様子を自らデモンストレーションするようなもので、苦痛以外の何物でもなかった。そして、その新人に見本を見せ、「どう?分かった?」と聞いたところ、「はぁ…まあ、はい」というような何か不思議そうな反応だった。彼の真意は分からないが、その時僕は、仮にこの仕事を天職と定めるとすると、この調子では将来自分が人の上に立つ立場になったとき、スタッフを教育するのは困難だと強く感じた。で、接客業を生業にするのは僕には無理だと判断し、あきらめることにした。

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最近ツイッターで皆さんと交流していると、吃音持ちで接客業をやっておられる方が多くて本当に驚きます。当時の自分の選択がどれほど正しかったのか、未だによくわかりません。

次回のエントリに続きます。

僕の吃音遍歴(1)

 twitterおよびこのブログを通してみると、どうも僕は自分自身の情報発信が足りないということに思い至った。そこでこのエントリでは、僕の吃音遍歴、および僕が吃音によって人生でどのような選択をしてきたかについて述べておこうと思う。ただし、吃音症持ちの人生としては、極めて平均的なものかと思われるのでそれはご承知おき願いたい。また、この自分語りは、吃音を自力で克服しようとしつつも中途半端に逃げ回った結果の失敗談である。当然、吃音を見事克服された方も多くおられるので、この記事は反面教師的に読んでいただければ幸いである。

 

 さて、僕が自分の話し方が普通でないと気付いたのは、記憶が間違っていなければ、小学校低学年の頃だったと思う。親が言うには、幼稚園に入るか入らないかの頃から連発型のどもりがあったらしいが、自覚もなければ当時は指摘されることもなかった(なお僕の両親は現在に至るまで僕がどもり癖がある程度の認識でしかない)。気付いた動機は、父親からの叱咤である。僕がどもるたび毎回のように注意されるようになり、自分ではどもっていることがわからないので何について怒られているのか理解するのに時間がかかりひどく混乱した。それで僕は自分の喋り方が普通ではないということに気が付いたのだが、 それでも落ち込むことも気にすることもなかった。

 小学校中学年になった頃、突然隣の小学校の特別学級に週2日位程度通うことになった(通っていた小学校には特別学級がなかったので)。この理由も自分はよく分からなかった。親からの説明もなかった。表現に誤解があったら申し訳ないが、突然知的障害の子供たちの間に加わって活動することになり、率直にいって僕は彼らに恐怖を覚えた。攻撃的な子供もいて、僕はしばしばその対象になった。そこでの半日程度の活動を終えて自分の小学校に戻ってくると、同級生達は一体どうしたんだ、元気なのかと、とても心配してくれたことを覚えている。結局、それが吃音治療のために通わされていたということに大学生に入った頃気付いたのだが、当時は2年ほどで通わなくて済むようになり、それが嬉しくてどうでも良くなってしまっていた。また、この頃、「どもり」を真似されることもあったが、その頃の僕にとってまったく気にやむこともない程度のものだった。

 小学校6年生のときに、はじめてショックな出来事が起こった。20年以上前の話なので詳細は覚えてないが、何らかの事件(といっても小学生にとっての、であるが)が起こり、その犯人はだれか、という話になった。教室の中で起こったことではなく、皆で公園で遊んでいる場面であったと記憶している。そのとき、ある友人が、順番に「お前がやったのか」と聞いて回りはじめた。僕の番になったとき、僕はふつうに違うと答えた。ところが、友人にには「ち、ち、ちち違う」などと聞こえたのであろう。「お前は嘘をついているからそんな喋り方なんだ。お前が犯人なんじゃないか」ということで、僕が結局犯人にされてしまった。

 その事件は結局のところ大したことでもなかったので、すぐに忘れ去られてしまうようなものであったが、僕にとって「喋り方が原因で犯人に決めつけられた」という事実は強く傷として残った。これは私見だが、このような出来事の有無が、吃音が自然治癒するかどうかに影響しているのではないかと僕は考えている。このころから次第に僕は教科書の読み上げなどを異様に気にするようになった。吃音もちの皆が同じ経験をしているように、読み上げるたびに先生や友人に奇異な目で見られた。どもりのものまねも頻繁にされるようになった。それでもなお僕は学校が楽しかったし、友達としゃべるのは大好きだった。

 小学校を卒業し、中学のころになると、連発にくわえ難発型の吃音が生じるようになった。といっても、特定の音が言いにくいとか、自分の名前が言えないとかそういう類のものではなく、とにかく流暢に読み上げができていないということをはっきりと自覚するようになった。僕は周囲から馬鹿にされないよう慎重になり、様々な方法を試みた。このとき、僕は何を参考にしたか忘れたが、かなりこまめに発声を区切ると、普通とはいえないが喋りにくさが低減されることに気が付いた。それで、中学生のころは、たとえば「今日は、とても、いい天気、でした」とうように意図的に区切ることを続けた。すると、中学校を終えるころには、吃音などまったく気にしない程度に回復してしまった。この行為の意味が何かはわからないが、とりあえずそのようなわけで、高校を卒業するまで僕は吃音について悩むことはほぼなくなった。

 無事高校に進学し、友人たちと交流しながら、大学受験も終えた。受験の面接のとき、久々にやたら緊張し、どもりまくったことを良く覚えているが、それでも僕は自分が吃音であること、あるいはあったことを忘れていた。

 

 そして、決定的な出来事が僕の身に降りかかった。高校の卒業式を終え、大学入学を目前に控えたころ、僕は中学時代の友人に電話をした。友人の母とも懇意で、しばしば連絡を取り合っていた友人であった。いつもどおり僕は電話をかけ、何コール目かで友人の母が電話に出た。その時であった。なぜか言葉が全くでてこない。「もしもし?」と受話器の向こうで友人の母が不審そうに繰り返し聞いてきている。僕は、とにかく焦り、なんとかして自分の名字を言おうと力を振り絞った。「あ、あ、あの、えっと」という感じの発話を2分ほど続けたあと、ようやく名前をいうことができた。なぜ急に吃音が再発したのか、何が原因なのかと考えながら、とにかく強いショックを受けた。その後の友人との会話は覚えていない。友人からは、友人の母が僕の様子がおかしいと言っているとも聞いた。それがきっかけでその友人(というか旧友全般)と連絡を取るのをためらうようになった。結局次にその友人と会話をしたのは今から数年前、実に20年ぶりのことであったが、その時も「そういやあのとき変な電話があったなあ。いったい何があったんだ」と心配された。僕は事情を説明し、お互い大人で、幸い介護関係の職についていたその友人はすぐに理解を示してくれた。それはともかくも、僕にとって、そのような衝撃的な出来事のあと、僕の大学生活は始まった。それと同時に、僕の吃音の症状は急激に悪化していった。

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長くなったので次回に続きます。就職関連の記述についてもおそらく次回になります。繰り返しになりますが、吃音症持ちの方にはよくある話だとは思いますが、何かの参考になればと思って書いていますので、引き続き宜しくお願い致します。

吃音に対する向き合い方の違い

 吃音症の当事者・および関係者の方々にとっては至極当然のことかもしれないが、吃音症の当事者達が望む吃音に対する対処法、あるいは吃音症の対処法の志向と言うべきであろうか、それについて整理しておきたいと思う。当然ながら以下の分類は僕の主観なので、「それは違うんじゃないか」というご意見があれば、コメントいただければ幸いである。随時修正していきたいと思う。

 

(1)吃音を治す

 吃音を治そうと努力をする方法である。僕はおもにこのタイプであった。今もそうかもしれないが、昔よりかは治そうというこだわりは減ったと思う。吃音を治す方法も諸々ある。

  • 発声練習
  • DAT装置の利用
  • 心療内科への通院
  • 場数を踏む

 他にもあるかもしれないが、僕が経験したのはこんなところである。いずれも、効果はそこそこといったところで、僕が一番吃音の状態が悪かったと感じている20歳前後に比べたら、だいぶ緩和された自覚があるが、いずれの方法でも完治に至らせるのは難しいと感じる(個人差はあるかもしれないが)。それぞれについてはまた記事をあらためて述べていきたい。

 ところで、少し話がずれるかもしれないが、僕は扁桃腺炎持ちで、よく高熱を出す。そのようなときの吃音の状態は最悪で、これ以上ないくらい発声のコントロールができなくなる。一見、同じように見えても、吃音者と健常者の発声のメカニズムは根本的に異なるはずなので、発声に関わる肉体の器官がダメージを受けると、吃音が重症化するのかなあなどと自分では思っている。

 

(2)吃音であることを受け入れる

 吃音であっても仕方ないじゃないか、と良い意味で開き直るタイプである。社会がどのように見ようと、自分は自分である、と堂々と胸を張って生きることができるタイプである。若年層でこのタイプは少ないのではないかと思われる。どこかの本に、30台中盤になるとこの状態になる場合があり、それが結果的に治癒に貢献すると書いてあったことを覚えている。これは完全に個性によるのではないかと考えている。

 たとえば僕は、「えーとえーと」というフィラーを挟むことで、なんとか最初の音を発声しようとする傾向があるが、未だに、一回「えーとえーと」といってしまうだけで相当沈んでしまう。だから僕にとって受け入れるというのは少々理解が難しい方法なのだが、諸般を見渡せばそのような方々も多く、是非参考にしていきたいと感じる。ただ、個性による差があるというのは忘れてはいけないと思っている。

 

(3)吃音を社会に受け入れてもらう

 社会に吃音の存在を受け入れてもらい、あるがままの自分を見てもらおうという考え方である。僕は、先ずこれが目指すべき最優先の世界ではないかと思っている。なぜならば、一番多くの人がその恩恵を受けることができると思うからだ。足を引きずっている人がいれば、「あ、怪我しているんだな」と思うのと同様、吃音症の人を見た時、「あ、吃音症なんだな」と思うようになり、そこには吃音症の人に対する奇異な視線は存在しない。そのような世界を僕は望んでいる。

 

(4)吃音症を障害として認めてもらうよう活動する

 僕はあまり詳しくないが、国に障害として認めてもらうことで、障害者手帳を発行してもらい、生活のサポートを受けようという考え方である。僕も国は障害者手帳を望む人に発行するべきだと思う。しかし、吃音を障害として認めてほしくないと考えている人も多く、意見が吃音症持ちの間でも分かれていると聞いた。たしかに、一度国が認めてしまえば、自分が手帳をもらおうとどうだろうと、世間の目は「障害者」ということになる。それに抵抗がある人が出てくるのは当然だ。

 僕も自分が障害者という自覚はない。しかし、いつかは吃音症持ちの人の多くが向き合わなければならない現実だろう。

 

(5)あきらめる

 すべてをあきらめ、会話することすら放棄するタイプである。言い過ぎかもしれないが、引きこもりやニートになったり、自殺してしまうことすらあり得るだろう。実は僕も、一度会社を辞めたとき、この状態に陥った。死にたいとおもったことだってある。このような人は決して少なくないだろう。

 

 さて、とりあえず上記のように吃音症持ちの吃音に対する志向を整理してみたが、僕はとりあえず今まで(1)(2)を試み、途中で(5)の状態に陥り、そして今、(3)か(4)かを選択をしようとして(3)を選ぶことにした。従ってこのブログでは(3)を実現する方法について検討することを目指すのである。

僕が吃音者の実態をどの程度知っているのか

 早いもので、前回のエントリからもう一週間あまりが経過してしまった。下書きばかりが増えていって何から書けばいいのか混乱気味であったのだが、僕はもともと筆が早いほうではないのでご容赦いただきたい。

 

 さて、前回のエントリまでに、僕が掲げる計画の最終目標を示した。予定では、次回のエントリでは、具体的にどのような行動をもってその目標を達成していくかについて、今のところの僕の考えを述べようと思う。「今のところ」と表現したのは、実際に行う内容は、実態を調査しながら探索的に進めていかなければいけないと考えるからだ。

 

 今回のエントリでは、「実態」という言葉が出てきたのでそれに関して少し触れておきたい。とても大事なことだと思うからだ。

 

 実態を調査しながら探索的に進める、と前述したが、この文章を読んでいる方々の心のうちには、「お前は吃音者の実態をどれほど知っているのだ」という疑問が生ずるはずである。もちろん、自らが吃音症持ちなのだからある程度の知識がないわけでもない。しかし実質的には、何かを主張したりする際に有効となるような情報は、「殆ど知らない」という状況である。

 

 なぜなら僕はこれまで、自分の病気について目を逸らすことで、精神的安定を図ってきたと、自己分析の限りでは思われるからだ。だから、吃音に関係する資料の調査や、同じ悩みを抱える人々との交流を避けてしまっていた。何かをしゃべらなくてはいけないという場面でなければ、可能な限りこの悩みから遠ざかりたく考え、そのように生きてきたからだ。このような性質を持つ人が、吃音者の中でどれくらいを占めるのかはわからない。twitterなどで、いわゆる「本アカ」で、自らは吃音であると宣言したり、公の場のスピーチで「自らは吃音を抱えているので、聞き取りにくいのはご容赦願いたい」などと宣言できる方々は、おそらくは僕とは異なる性質で、僕よりずっと勇気があるのだろう。僕はこれまで本当に憶病で、ちゃんと目を向けようと決意するまで35年もかかってしまった。

 

 このブログでは、以後のエントリではまず大目標をブレイクダウンした方策を示した後、様々な調査を行い、 僕自身も初めて知るであろうことを皆さんとと共有していきたいと思う。その調査がある程度まで達することで、目的を達するための具体的行動について、最終的決断ができると考えている。

 

 もちろん、先人たちがすでに素晴らしい情報を集めたサイトを作っていたり、古くから存在する吃音関係の団体には相当の知識や経験の蓄積があることが予想されるが、それはそれとして、僕は僕が考えるアプローチを進めていきたいと思う。このブログではどのような過程で情報を集め、判断し、行動していくのかを綴っていくつもりであるので、見守って頂ければ幸いである。

当サイトの目的

 

第一回目のエントリに続き、僕がこのサイトを立ち上げた目的について述べようと思う。

といっても、そのあたりについては既にtwitterで述べているので、それを以下に引用する。

 

 

 

 

 

以上を整理すると、次のようになる。

「吃音者の実態を把握し、それを根拠として企業に吃音への理解・吃音者の雇用の拡大を促すことで吃音者の人生の選択肢を拡大させる」

 

このたびtwitterで吃音であると宣言している方々をフォローしていて思うのが、中高生などの若い方々が予想以上に数多くいるということだ。僕は言友会には属していないが、これまで彼らと関わりを持つ機会があったとき、若い方々が多いという印象を受けていた。しかし、twitter上で調べてゆくと、その印象よりも年齢層はさらに低いと感じる。

かれら中高生が今後の大学生活や就職活動において、その行動が制限されないよう、ストレスなく生活できるよう、道を切り拓くために先陣をきって行動することが、35歳という中年の僕にできる数少ないことであるだろう。